東工大出身で弁理士の菅直人首相は、自分は原子力の専門家だといって、「原発事故」発生当初から、自らの見解ですべてを押し切ろうとしていたとが報道されています。
たとえば、「危機管理失格がばれた福島原発「レベル7」、今こそ明るいリーダーを!」-最大の対策は首相の交代」(2011年04月13日、現代ビジネス)。みんなの党の党首である渡辺喜美氏が、3月12日に党首会談の内容について語っています。
それを解く鍵は、菅総理の原発事故に対する初動における致命的な過小評価にあるという見方が浮上する。
日付は、遡ること3月12日。震災翌日の午後2時、経済産業省原子力・安全保安院の中村幸一郎審議官は、記者会見で、「炉心溶融が進んでいる可能性がある」旨、説明した。
午後3時からの与野党党首会談。私は、「メルトダウンが起きているのではないか」と問い質した。
すると、菅総理は、「これはメルトダウンではない」と述べ、放射線が大量に漏れる状況ではない旨、滔々と自説を語った。「圧力抜きの作業が行われ、冷却水の水位が回復しており、原子炉は大丈夫」と自信をもって語っていたのだ。この話ぶりから、到底レベル7の深刻度に至るという危機意識を有していないことは明らかだった。
菅総理がそう語っている党首会談の真っ最中の午後3時36分、1号機が水素爆発。その後、間もなく菅総理とは真逆の真実を語っていたと思われる中村審議官は、記者会見から姿を消した。
その後、炉心溶融が進んでいる可能性を認めないまま、政府の原発事故対応が行われた。
・・(中略)・・
初動段階において原子炉の実態を過小評価したという事実は重大だ。
ひとたび過小評価をしたものは、自分の誤りを容易に認めたくないため、より深刻な評価を対外的に発表したくないという誘引が働く。
あるいは、より深刻な評価に基づく対策をとると自分の誤りを認めることになるため、容易に適切な対策を講じられなくなる誘引が働く。昔の金融危機における不良債権問題においても、まさしくそういうベクトルが働き、危機対応が後手後手になった。保身癖の強いと思われる菅氏であればなおさらだろう。
ちょっと長い引用になってしまいました。記事内容の真偽については、当事者ではないのでわかりませんが、この記事に書かれたことが事実であるならば、この点においてだけでも、菅首相は「リーダー失格」と言わねばなりません。
仕事柄、私は多くの経営者に接してきましたが、どんな経営トップであっても、自分のバックグラウンドに大きく規定されているものです。
営業出身者は管理に弱く、技術出身者は営業に弱く、法人営業出身者は小売には弱く・・・。人間の能力には限界がありますので、それじたい批判するべきことではありません。
ただ、重要なのは経営トップに限らず、組織のリーダーに求められるのは、個別分野の専門性よりも、むしろ「全体を見る目」と「優先順位をつける」ことだと思います。これは英語でいうと General Management と呼ばれているものです。それじたいが専門性を要求されるものです。
つまり、トップの仕事はそれ自体が専門職、個別の専門分野は、適切に部下にまかせなければなりません。そのために重要なのが「全体を見る目」と「優先順位をつける」ことであるわけです。そして、部下にまかせた仕事を、適切にモニタリングすること。
とくに一国の首相であれば、国民の生命と財産を守ることがミッション(使命)の中心にこなければいけません。これは、組織全体を預かる経営トップにとっても同様でしょう。
このミッションに行動規範としてのバリュー(価値観)がともなうとき、危機的な状況に際しても迷いはないはずです。即座に行動に移せるはずです。いいかえれば、「軸」がしっかりとしていれば行動に迷いはないのです。
菅首相は、トップとして、もっともやっってはいけないことをやって、自ら窮地に追いこんでいるだけでなく、国民の生命と安全を危険にさらし、しかも国際的な評判を下げる最大の元凶になっていると言わねばなりません。
自分の専門ではないのにかかわらず、自分ができると主観的に思い込んでいる分野で指揮をとろうとする視野狭窄(しやきょうさく)ぶりとその後の迷走ぶり。そして怒鳴り散らせば命令に従って人は動くと思い込んでいる無知と傲慢。自分の保身が価値観の中心というのでは聞いてあきれます。
危機管理をするうえで、最もやってはいけないことをやっているのです。
まさに「生兵法は怪我のもと」と言わざるを得ません。中途半端な知識が問題を余計大きなものにして、取り返しのつかない致命的な誤りを誘発したことは間違いありません。
リーダーの真価は危機対応に際してすべて判明してしまう。こういう人ですから、コトバにも魂が入っていないのでしょう。しゃべるコトバがすべて空虚に響きます。
この危機をつうじて、真のリーダーが生まれてくることを願ってやみません。
そのための「反面教師」であるならば、それこそ「歴史的に意味もあった」という評価が下されるかもしれません。あるいは「他山の石」とすべき存在か。
「歴史の審判」については、あえて私がクチにするまでもないでしょう。
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